So Fishmans!(my fishmans life)


[음악 위인전 제14회]


사토 신지(휘시만즈) (전편) - "각성"에 이르는 길



佐藤伸治(フィッシュマンズ)


일본 음악사에 손톱 자국을 남긴 아티스트의 업적을 되짚어보는 연재. 그 여섯 번째로 채택한 것은 휘시만즈의 사토 신지(佐藤伸治)이다. 사토가 사망한지 20년이 지났지만 지금도 여전히 휘시만즈의 음악은 시대를 뛰어넘어 많은 뮤지션들에게 계속 영향을 주고 있다. 이 글에서는 사토 및 휘시만즈가 남긴 발자국을 전/후편에 걸쳐 되돌아 본다. 전편은 학생 밴드로 시작한 그들이 메이저 데뷔를 하고, 작품마다 음악적인 연구를 거듭하며, 마이 페이스이면서도 성장해 가는 과정을 추적한다.


글 / 오노지마 다이(小野島 大)



높아지는 재평가


어느새 휘시만즈 사토 신지(Vo)의 갑작스런 죽음으로부터 정확히 20년이 지났다. 1999년 3월 15일. 거의 모든 곡을 만들고, 프론트 맨으로서 항상 스테이지의 가운데에 서있었던 사토의 사망으로, 휘시만즈는 모든 활동을 정지했다. 그 후, 유일하게 남은 멤버인 모테기 킨이치(Dr)가 연고가 있는 아티스트를 모아 밴드는 재시동, 라이브를 중심으로 지금도 활동을 계속하고 있지만, 이제 신곡이 만들어지는 일도 없고, 새로운 앨범이 세상에 나오지도 않는다.


佐藤伸治(フィッシュマンズ)

사토 신지(휘시만즈)


말하자면, 휘시만즈는 20년 전에 멈춰버린 그대로의 밴드이지만, 오히려 잊혀지기는커녕, 지금도 여전히 새로운 리스너가 계속 늘어나고 있다. 사토의 공연을 리얼타임으로 본 적 없는 젊은 리스너들이 라이브에 몰려오고, cero를 비롯한 젊은 뮤지션이나 크리에이터가 휘시만즈로부터 받은 영향에 대해 이야기한다. 남겨진 앨범이나 싱글은 "고전"으로서 계속 전해지고 있으며, 「Rate Your Music」 등 음악 레이팅 사이트를 중심으로 예전 앨범이 일제히 높은 평가를 받아, 해외 팬도 계속 증가하고 있다. 이전 앨범의 리마스터 재발매나 새로운 베스트 앨범, 영상 작품 릴리즈, 리믹스 음원 발표, 관련 서적 간행 등도 끊이지 않고 있고, 클라우드 펀딩으로 자금을 모집한 새로운 다큐멘터리 영화의 제작도 진행 중이다. 휘시만즈의 음악은 과거의 것이 아니라, 현재 진행형의 표현으로서 지금도 리얼하게 울려퍼지고 있다.


アナログLP2枚組作品「BLUE SUMMER~Selected Tracks 1991-1995~」。茂木欣一(Dr)が“レコードで聴いて欲しいベスト選曲”をテーマに初期音源から厳選した全13曲を収録。(発売日:2018年8月1日)

아날로그 LP 2장으로 구성된 작품 「BLUE SUMMER~Selected Tracks 1991-1995~」. 모테기 킨이치(Dr)가 "레코드로 듣길 원하는 베스트 선곡"을 테마로 초기 음원에서 엄선한 13곡을 수록. (발매일: 2018년 8월 1일)



アナログ&CD作品「Night Cruising 2018」。代表曲「ナイトクルージング」をエンジニアのZAKがリミックスした楽曲「ナイトクルージング2018」をはじめ、ポリドール所属時代の音源を5曲収録。(発売日:2018年8月8日)

아날로그&CD 작품 「Night Cruising 2018」. 대표곡 「나이트 크루징」을 엔지니어 ZAK가 리믹스한 곡 「나이트 크루징2018」을 비롯해, 폴리도르 소속 시절의 음원을 5곡 수록. (발매일: 2018년 8월 8일)



밴드 붐이 한창일 때 결성


휘시만즈는 1987년 여름, 메이지 학원 대학의 음악 써클 「송 라이츠」 소속의 학생들로 결성되었다. 초기 멤버는 사토와 오지마 켄스케(G, Vo), 모테기 킨이치(Dr)였으며, 나중에 카시와바라 유즈루(B)가 들어왔다. 사토와 오지마가 같은 학년의 동급생이었고, 카시와바라와 모테기가 2년 후배인 관계였다. 참고로, 그 1학년 후배로는 치바 유우케(The Birthday/ex. Thee Michelle Gun Elephant)도 있었다(역주: 그 밖에도 캐스터네츠, 오토기 바나시 등 「송 라이츠」 출신의 뮤지션이 많이 있다). 휘시만즈라는 밴드명의 유래에는 여러 설이 있다. (역주: Fishmans라는 멕시코의 레슬러, 사토신지가 물고기를 닮아서 등등)


1988년, 도쿄 시부야의 라이브 하우스 La.mama를 중심으로 밴드의 라이브 활동을 시작했다. 처음에는 그 전에 사토가 했던 밴드 「시간」이 해산한 것에 대한 충격으로 어떤 밴드에도 속해 있지 않았던 그도, 가장 열심히 밴드를 이끌었던 오지마에게 감화되어, 점차 의욕적으로 변해갔다. 당시 같이 공연을 했던 팀은 하바나 엑조티카(Buffalo Daughter의 전신 밴드) 등이 있었다. 다음 해인 1989년에는 당시 영향력 있던 컬쳐 잡지 「보물섬(宝島)」의 레이블 캡틴 레코드(キャプテンレコード)에서 발매한 컴필레이션 앨범 「패닉 파라다이스(パニック・パラダイス)」에 참가하여, 두 곡을 제공하기도 했다(역주: 이나고가 톤데루(いなごが飛んでる), 스페셜 나이트).


당시에는 "로자 룩셈부르크(ローザ・ルクセンブルグ)와 RC Succession을 더해, MUTE BEAT를 뿌린 것 같다"는 평을 듣기도 했다. 결성 초기에는 The Jam이나 The Who와 같은 비트 밴드였지만, 차츰 레게나 스카나 록 스테디 등을 베이스로 하는 기타 록이 되어, 가끔 사토가 코르넷을 불기도 했다. 「패닉 파라다이스」에 참가했던 시점에도, 향후의 휘시만즈스러움은 싹트고 있었지만, 아직 밴드로서의 기초(足腰)는 약하고, 개성은 확립되어 있지 않았다. 당시 같이 공연을 했던 뮤지션에게 물어봐도, 그렇게 강한 인상은 없었던 것 같다. 그렇다고 하더라도, 시기적으로 인디 붐에서 밴드 붐으로 접어들던 때였다. 록이 돈이 된다고 생각한 레코드 회사가 라이브 하우스로 몰려가, 파릇파릇한 밴드를 물색하는 데에 여념이 없었다. 휘시만즈도 예외가 아니어서, 여러 회사들로부터 섭외를 받았던 것 같지만, 사토는 "이런저런 사무소라거나, 레코드 회사라거나 있지만, 전혀 관심 없어", "레코드 따위, 아직 낼 생각도 없잖아" 등 당시 인터뷰(「TRANSISTOR 매거진」, 1989년 10월 창간호)에서 무뚝뚝하게 말하곤 했다. 밴드 붐의 상징적 존재로, 아마추어 밴드의 등용문과 같은 역할도 했던 인기 TV 프로그램 「멋진 밴드 천국(いかすバンド天国)」에 대해 말하는 어조도 어딘가 다른 사람의 일처럼, 별 볼일 없는 밴드만 잔뜩있는 붐이라니 금방 끝날 거야라며 관심없었다.


그렇지만 라이브를 거듭할수록 밴드의 기반도 사운드도 다져졌다. 1989년 여름 무렵 매니지먼트 사무소 리본과 계약한 것은 그들 마음 속에 프로로서의 자각이나 야심과 같은 것이 생겼다는 증거이기도 하다. 리본은 RC Succession의 매니저였던 오쿠다 요시유키(奥田義行)가 설립한 사무소로, RC도 한때 재적했던 적이 있었다. RC나 이마와노 기요시로(忌野清志郎)를 존경하고 있던 사토나 휘시만즈 멤버들에게, 그 이상의 파트너는 없었다.


사무소가 정해지면서, 그들의 활동은 급속히 본격화 되어 갔다. 지명도도 높아지고, 대형 이벤트의 출연도 늘어, 1989년 11월에는 다이토 문화 대학(大東文化大学)의 축제에 출연하여, MUTE BEAT와 함께 공연을 하기도 했다. MUTE BEAT의 팬이었던 사토에겐 커다란 감격이기도 했지만, 이 때 MUTE BEAT의 리더인 트럼펫 연주자 코다마 카즈후미(小玉和文)(현: 코다마 카즈후미(こだま和文))와 인연을 맺게 된 것이 중요한 계기가 되었다. 나중에 코다마는 휘시만즈의 데뷔 앨범 「Chappie, Don't Cry」의 프로듀싱을 맞게 된다.


メジャーデビュー時のフィッシュマンズ。

메이저 데뷔 때의 휘시만즈


(천천히 번역하겠습니다. 2019.11.4)


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音楽偉人伝 第14回


佐藤伸治(フィッシュマンズ)(前編)

“覚醒”へと続く道のり



佐藤伸治(フィッシュマンズ)




日本の音楽史に爪痕を残すアーティストの功績をたどる本連載。6人目に取り上げるのはフィッシュマンズの佐藤伸治だ。佐藤の没後20年を経た今もなお、フィッシュマンズの楽曲は時代を超え多くのミュージシャンに影響を与え続けている。本稿では佐藤ならびにフィッシュマンズが残した足跡を前後編にわたり振り返っていく。前編は学生バンドとしてスタートした彼らがメジャーデビューを果たし、作品ごとに音楽的な研鑽を重ね、マイペースながらも成長していく過程をたどる。

文 / 小野島大

高まる再評価

早いものでフィッシュマンズの佐藤伸治(Vo)の急逝からちょうど20年が経った。1999年3月15日。ほぼすべての楽曲を作り、フロントマンとしてステージに立ち続けてきた佐藤が亡くなって、フィッシュマンズはすべての活動を停止した。その後、残された唯一のメンバーである茂木欣一(Dr)がゆかりのアーティストを集めバンドは再始動、ライブを中心に今も活動を続けているが、もう新曲が作られることもなく、新しいアルバムが世に出ることもない。

いわば20年前に止まったままのバンドであるフィッシュマンズは、しかし忘れ去られるどころか、今もなお新しいリスナーを増やし続けている。ライブには佐藤の存命時を知らない若いリスナーが詰めかけ、ceroをはじめとする若いミュージシャンやクリエイターがフィッシュマンズからの影響を口にする。残されたアルバムやシングルは“古典”として聴き継がれ、「Rate Your Music」などの音楽レーティングサイトを中心に旧作アルバムが軒並み高評価を受け、海外でのファンも増え続けている。旧譜のリマスター再発や新たなベスト盤、映像作品のリリース、リミックス音源の発表、関連書籍の刊行などもあとを断たず、クラウドファンディングで資金を募った新たなドキュメンタリー映画の製作も進行中だ。フィッシュマンズの楽曲は過去のものではなく、現在進行形の表現として今もなおリアルに響き続けている。

バンドブームの最中に結成

フィッシュマンズは1987年夏に明治学院大学の音楽サークル「ソングライツ」所属の学生によって結成されている。メンバーは佐藤と小嶋謙介(G, Vo)、茂木欣一(Dr)で、のちに柏原譲(B)が加わった。佐藤と小嶋が同じ学年の同級生、2学年下が柏原と茂木という関係である。ちなみにその1学年下にチバユウスケ(The Birthday / ex. Thee Michelle Gun Elephant)もいた。フィッシュマンズというバンド名の由来には諸説ある。

バンドは88年に東京・渋谷のライブハウスLa.mamaを中心にライブ活動を開始。当初は以前やっていたバンド「時間」が解散したショックで今ひとつバンドに身が入っていなかったという佐藤も、一番熱心にバンドを引っ張っていた小嶋に感化され、次第にやる気になっていく。当時の対バン相手にはハバナエキゾチカ(Buffalo Daughterの前身バンド)などがいた。翌89年には当時影響力のあったカルチャー誌「宝島」のレーベル・キャプテンレコードから出たコンピレーションアルバム「パニック・パラダイス」に参加、2曲を提供している。

当時は「ローザ・ルクセンブルグとRCサクセションを足してMUTE BEATをふりかけたような」と評されることもあった。結成当初はThe JamやThe Whoのようなビートバンドだったが、やがてレゲエやスカやロックステディなどをベースにしたギターロックとなり、時折佐藤がコルネットも吹くようになる。「パニック・パラダイス」への参加時点で、後年のフィッシュマンズらしさは芽生えているが、まだバンドとしての足腰は弱く、個性は確立しきっていない。当時対バンしたミュージシャンに聞いても、強い印象はないようだった。とはいえ時はインディーズブームからバンドブームに差し掛かろうという時期。ロックが商売になると踏んだレコード会社がライブハウスに押しかけ、青田刈りの物色に余念がなかった。フィッシュマンズも例外ではなく、いろいろな大人たちから声がかかったようだが、佐藤は「いろんな事務所とか、レコード会社とかあるけど、ぜんぜん興味ないんだ」「レコードなんて、まだ自分たちだって、出す気ないもんね」と当時のインタビュー(「TRANSISTORマガジン」1989年10月創刊号)で素っ気なく言っている。バンドブームの象徴的存在で、アマチュアバンドの登竜門的な役割も果たしていた人気テレビ番組「いかすバンド天国」を語る口調もどこか他人事で、つまんないバンドばかりのブームなんてすぐ終わる、と醒めている。

とはいえライブを重ねるうちにバンドの基盤もサウンドも固まってきた。89年夏頃マネージメント事務所りぼんと契約したのは、彼らの中にプロとしての自覚や野心めいたものが湧いてきた証拠でもあるだろう。りぼんはRCサクセションのマネージャーだった奥田義行が設立した事務所で、RCも一時期在籍していた。RCや忌野清志郎を尊敬していた佐藤らにとって、これ以上のパートナーはなかった。

事務所が決まり、彼らの活動は急速に本格化していく。知名度も上がり、大きなイベントへの出演も増え、89年11月には大東文化大学の学園祭に出演、MUTE BEATと共演している。MUTE BEATのファンだった佐藤は大感激したが、このとき、MUTE BEATのリーダーでありトランペット奏者の小玉和文(現:こだま和文)と面識を得たのが大きかった。のちに小玉はフィッシュマンズの1stアルバム「Chappie, Don't Cry」のプロデュースを手がけることになる。

小玉和文プロデュースでメジャーデビュー

90年3月には、当時よく対バンしていたムスタングA.K.A.のハカセ(Key / 現:HAKASE-SUN)がサポートメンバーとして加入(のちに正式メンバーに)。半年かけて口説いてメンバーにしたということだが、ハカセの加入で彼らのサウンドはさらに豊かになり、充実した。4月28日にはLa.mamaで初ワンマン。「ひっくりかえってた2人」「ピアノ」「いなごが飛んでる」「ひこうき」「Special Night」など、のちに1stアルバムに収められた楽曲も演奏されている。まだその時期じゃない、と頑なに拒否していたレコーディングにも意欲的になってきた。同年末にはついにメジャーのヴァージン・ジャパン(のちのメディア・レモラス)と契約し、91年2月にはオーストラリアのメルボルンでレコーディング。4月に1stシングル「ひこうき」、5月に1stアルバム「Chappie, Don't Cry」をリリースする。小玉にとっては、これが初の外部プロデュース仕事だった。彼はレコーディング前に、自らが編集したロックステディのミックステープをメンバーにプレゼントした。フィッシュマンズのリズムが散漫だと感じ、レゲエやロックステディのビートの真髄をメンバーに体得してもらうためだった。アルトン・エリスやジャッキー・ミットゥーなどを収めたそのテープにメンバー全員がヤラれ、来る日も来る日もそのテープを聴き練習を重ねた成果が「Chappie, Don't Cry」に結実している。

이미지

https://twitter.com/kin_drums/status/563705700291850241


ゆったりとした自然体の落ち着いた歌とシンプルで隙間の多い、肩の力の抜けた演奏は、佐藤の言う「イージーではない心地よさ」を気持ちよく体現している。レゲエを思想として捉え、ヒッピー幻想の延長として語るような旧世代のジジイにさりげなく異義を唱え、サウンドやグルーヴの気持ちよさを追求したのがMUTE BEATだったとしたら、当時のフィッシュマンズはその後継者と言える存在だったかもしれない。

とはいえ、そのサウンドも、「リアルな実体験を曖昧な言葉で歌う」ことを目指した歌詞も、ヒマを持てあましたモラトリアムな若者の日常そのもののようで、当時の自分には少し物足りなく思えたことも確かだ。だが、だからこそ当時の彼らの生活心情を的確に表した楽曲は、今もなお聞き継がれる名作ぞろいなのである。

91年11月、4曲入りミニアルバム「Corduroy's Mood」をリリース。前作とは打って変わってジャズやR&B的なニュアンスの曲が増えた。

そして92年10月にはパール兄弟の窪田晴男のプロデュースで2ndアルバム「King Master George」をリリース。焦点が絞れていた1stに対して、彼らの隠し持っていた雑多な音楽性をそのままぶちまけたようなバラエティに富んだ内容で、悪ふざけのようなジョークを散りばめた中に、きらりと光るメロディや歌詞が聞こえる。今聴けば彼らの迷いも感じるが、当時は洋楽を消化した邦楽ロックの理想型としてかなり高く評価した記憶がある。ところどころで聞けるダブミックスも効果的で、サウンド面でも自由に伸び伸びやっているのがよくわかる。窪田はのちに、「レコーディングは演奏するだけじゃなく、コンソールの側にも音楽がある、とわかってくれたんじゃないか」と語っている。名曲「頼りない天使」はダブミックスによってセンチメンタルでメランコリックなメロディと歌が際立ち、完成度の高い歌モノとなった一例であり、この時期の彼らの到達点と言える名曲だ。

とはいえ、本作に感心して勢い込んで観に行ったライブが、バンドとしてのエネルギー不足を感じ、いまひとつだったこともあり、私の彼らに対する興味は急速に薄れてしまう。私が彼らにもう一度出会うまで、4年の歳月が必要だった。

“もう1人のメンバー” ZAK登場

93年7月に3rdアルバム「Neo Yankee's Holiday」をリリース。初のセルフプロデュース作だが、重要なのはレコーディングエンジニアとして本作でZAKが初めて起用されたことだ。それまでライブエンジニアとしてフィッシュマンズをはじめBOREDOMSなどを担当していたZAKは、レコーディングエンジニアとしてはさほど実績がなかったが、メンバーの強い要請で抜擢された。これ以降、「宇宙 日本 世田谷」までの全アルバムを手がけることになるZAKは、フィッシュマンズのもう1人のメンバーと言っていいほどの重要人物である。

「Neo Yankee's Holiday」では、ヒップホップやトリップホップのリズムやアレンジを参考に、打ち込みやサンプリングが多用され、生身のバンドサウンドというよりは密室的なスタジオ作業の側面が強くなっている。歌中心の表現であることに変わりはないが、何を伝えるかだけではなく、どう伝えるか、という語法にバンドの関心が向くようになったアルバムであり、エフェクティブなサウンドや、温かみや丸みというよりクールで鋭く研ぎ澄まされた音色、無駄を削ぎ落としたストイックな音像が際立つ音響作品となっているのは、ZAKの功績も大きいだろう。歌詞先行で楽曲は作られたが、歌詞だけでは表しきれない、伝えきれない部分をサウンドで補っていくというバンドの考え方は、本作あたりからはっきりしてきた。

楽曲面では佐藤の迷いがなくなった。ポップなものへの色気や、タイアップなど外部からのコマーシャルな要請を一切遮断して、自分たちが本当にいいと思うものだけを徹底してやる。そう割り切ったことで、楽曲はどんどん研ぎ澄まされていった。「いかれたBaby」は、フィッシュマンズ史上屈指の名曲として今も聴き継がれる。退屈でつまらない、ちっぽけで些細な日常を歌う歌詞はますます研ぎ澄まされていく。そんな佐藤の楽曲の進化 / 深化に「プレイヤーとして力不足を痛感し、彼に付いていくために一生懸命練習した」とはのちの茂木の発言だ。

小嶋謙介の脱退

94年2月に「Go Go Round This World!」、6月には「Melody」と2枚のマキシシングルをリリース。「Melody」に収録された、友人の結婚式で歌われたという「いかれたBaby」のなんともアットホームなライブバージョン「WEDDING BABY」は、フィッシュマンズ史上屈指の名演と言っていい。

しかし「Melody」の発売直前に小嶋が脱退してしまう。脱退の理由は本人からも他メンバーからもはっきりとは語られていないが、加速するばかりの佐藤の楽曲のすさまじい進化に、茂木や柏原は食らい付いていったが、(言葉を選ばずに言えば)小嶋は付いていけなかった、ということかもしれない。佐藤とは大学の同級生で、バンドメイトである以前に無二の友人同士だった小嶋が降りたことで、フィッシュマンズの進化はさらに加速していく。小嶋の後釜は補充されることなくフィッシュマンズは4人編成で続くが、これ以降、バンドからは櫛の歯が抜けるように次々とメンバーが去っていくのである。

そして同年10月には4枚目のアルバム「ORANGE」をリリース。本作はエンジニア、ミックスに加え共同プロデューサーとしても名を連ねたZAKとの完全な共同作業で制作された。脱退した小嶋に代わり、Buffalo Daughterのシュガー吉永をサポートギタリストに迎え、ロンドン録音で制作されたこのアルバムは前作とは大きく趣を変え、あえて言えば“渋谷系”のサウンドに近いポップで開放的なロックサウンドになった。

前作後にライブの本数を増やしたことでライブバンドとして自信を付け、レコーディングも生のバンド感を強調するようなダイナミックな演奏となり、レゲエ色も薄れている。彼らの作品系列からすると「Neo Yankee's Holiday」の発展型が「空中キャンプ」であり、間に挟まれた本作はやや脇道に逸れた感もあるが、その溌剌としたポップネスは、ほかのフィッシュマンズのアルバムにはない魅力がある。終曲「夜の想い」は、この時期のフィッシュマンズが達した静かなる新境地だ。なおこのアルバム以降、Buffalo Daughterのムーグ山本(Turntable, Vo)がフィッシュマンズのアートワークを手がけるようになり、彼らの新たなイメージ作りに深く関わっていく。

「ORANGE」はフィッシュマンズがメディア・レモラスに残した最後のオリジナルアルバムとなるが、レーベル移籍前の95年3月には活動前期の集大成ともいうべきライブ盤「Oh! Mountain」がリリースされている。前年12月に行った全国数カ所でのツアーの音源を収録したこの作品は、シングル曲や人気曲をあえてオミットし、客席の歓声やMCなどを極力カット、実際のライブ演奏にさまざまなエディットやエフェクトを加えて完成させている。ライブらしい熱い盛り上がりや一体感などはなく、むしろエディットやエフェクトが冷却装置として機能している。だが後期フィッシュマンズほど厳しく研ぎ澄まされている感じでもなく、初期の彼ららしい微妙なゆるさや温かみも残っている。言ってみれば「忙しいのは嫌いだ」と言い続けてきた怠け者の若者のモラトリアムでノンシャランな表情も、少し残している。そんな微妙な立ち位置のこのアルバムは、いまだにファンの間で人気の高い作品である。なお小嶋の代わりにサポートでギターを弾くのはカスタネッツの小宮山聖で、1曲だけヒックスヴィルの木暮晋也が弾く。そしてコーラスとピアノでHONZIが参加している。木暮もHONZIも後期フィッシュマンズではツアーメンバーとして欠かせぬ存在になっていく。

本作を最後にフィッシュマンズはメディア・レモラスとの契約を終了。バンドは老舗ポリドール・レコードへと移籍する。

<つづく>



https://natalie.mu/music/column/353232

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