SNC.10 관련 코멘트를 남기고 싶으신 분들은 답글을 달아주시거나 staff@kuchu-camp.net으로 메일을 보내주시면,
SNC.10 홈페이지에 추가하도록 하겠습니다.
(SNC.10 notice : http://kuchu-camp.net/xe/17898 )
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생활은 여전히 힘들고, 나이가 들수록 사람들 나름대로의 사정도 변해갑니다. 기적의 순간들이 점점 아득히 느껴지기도 하고요. 그것이 나에게 있어서 무엇인가에 대해 심드렁해지기도 합니다. 하지만 그런 순간, 떠오르는 얼굴이 너무나 많습니다. 웃는 얼굴, 우는 얼굴, 행복한 얼굴, 쓸쓸한 얼굴, 그냥 스쳐지나간 얼굴, 걱정하는 얼굴, 맛있어하는 얼굴, 안타까운 얼굴, 미안한 얼굴, 고마운 얼굴, 얼굴들... 너무나 많은 좋은 사람들을 만났고 너무나 행복했던 순간들을 캠프에서 겪었습니다. 그런 순간들, 함께 했던 친구들이 있었기에 힘든 일이 있을 때마다 모든 것을 놔버리지 않을 수 있었던 것 같아요. 우리들 마음에 흐르는 이 리듬 속을 아직은 좀 더 걸어가고 싶은 기분. 그런 기분입니다. 이번에는 어떤 얼굴들을 보게 될지, 어떤 피시만즈를 만나게 될지 어쩔 수 없이 또 두근거립니다. So fishmans! (inzo)
韓国の空中キャンプという場所は、音楽と酒と人、そしてフィッシュマンズが好きな仲間たちが集まってつくったカフェです。「毎日こんなに酒を飲むのなら、バーをつくろう!」と冗談で言ったことから、本当にバーができ、「キャンプで私たちの好きなバンドがライブしたらいいなあ……」と言ったことから、本当にライブが実現してしまいました。そのように、奇跡のように冗談のようにSNC(すばらしくてNICE CHOISE)のライブが、そして空中キャンプの毎日が今まで持続し、とうとうフィッシュマンズまで来ました。あ、フィッシュマンズですかね……。
生活は相変わらず大変で、歳をとるごとに人々は、それぞれ抱えている事情も変わっていきます。奇跡の瞬間がだんだん、遥か昔のことのように感じられたりもします。それが私にとって、何かへの興味を奪ったりもします。しかしそんな瞬間、多くの顔を思い出します。笑っている顔、かっこいい顔、じれったい顔、申し訳ない顔、ありがたい顔、顔、顔……。とてもたくさんの良い人たちに出会い、とても幸せだった瞬間をキャンプで感じました。その瞬間や、一緒にいた仲間がいたから、大変なことがあっても放棄しないでいることができたと思います。私たちの心に流れるこのリズムの中に、まだ、もっと、寄りそいたい気分。そんな気分です。今度はどんな顔たちに出会えるのか、どんなフィッシュマンズに出会えるのか、どうしようもなくドキドキしています。 So fishmans! (inzo)
フィッシュマンズをどのように知ったかと聞けば、周囲の人たちは普通『ナイトクルージング』や『いかれたBABY』を聴いて好きになったと話す。でも私はフィッシュマンズに、まず文章を通じて出会った。最近のようにインターネットが発達していない時期だったから、新しい音楽情報を得るには、パソコン通信の音楽コミュニティーの掲示板や、雑誌のレビューに頼るしかなく、その音楽について知ったとしても、実際に購入して聴くことは簡単ではなかった。フィッシュマンズも同じだ。誰かが彼らを紹介した雑誌の文章を偶然読んだ瞬間、聴きたいという好奇心に悩まされたけど、実際はCDを買うことができず、ジャケットのイメージとその文章から想像される音を、ひとり頭の中で再生する他なかった。やがて『空中キャンプ』と『ロングシーズン』のCDを買えることになり、そうして初めて聴いたフィッシュマンズの音楽は『ずっと前』だった。「いつもそばにいる幸せは/ある意味そんなもんで/ある意味ひとりぼっちのものなんだよ」。私の心を静かにノックした、フィッシュマンズとの初めての出会いだった。それから十数年間、私は、フィッシュマンズを知っているという縁で多くの人と会い、多くのことを体験した。ある人は今でも会っているし、ある人は遠くへ去っていった。季節はいくつか過ぎ、歳もとった。ミラーボールの下で夢を見たりもしたけど、いつの間にか忘れてしまった……とても昔のことのように。今、そのCDを再び手にとり、フィッシュマンズと文章を通じて出会ったあの瞬間を思い出してみる。頭の中で想像していた音楽が現実のものとなり、いつの間にか皆の心に残っている多くの思い出が、再び増えていくことを期待しながら。 (radio)
1999年3月16日。僕は片手で傘を持ち、片手で友達からの電話を受けました。佐藤伸治が亡くなったとの知らせでした。まさか、そんなことあるわけない、と話しながら、傘を落としました。雨が降っていました。世界は納得できないことであふれており、偶然なのか運命なのか決めてくれと強要してきます。偶然であることが多いです。しかし、運命だと思いたい時が、偶然だと思う時よりも少ないとは言えませんでした。フィッシュマンズが好きな人と出会ったこと、その人たちが素敵な人たちだったこと、空中キャンプを始めたこと、10年以上続いていること、この全てが偶然だったでしょうか? 運命だったでしょうか? ただ、たった1日のために、全てが運命だと思ってもいいだろうと考えました。フィッシュマンズが韓国でライブをするその日です。その日、手から落として壊してしまうにはもったいないものがあるとしたら、持ってこないでください。 (Wooyoung Jung)
興味があるか、ないかを離れて、フィッシュマンズという名は、ある時間についての記録、というような感覚を受けます。15年前に初めて紹介されたフィッシュマンズは、明らかに聞きなれない名前だったけど、21世紀を目の前にした当時、若者たちが世紀末という時間を記憶する際に、最も似合うバンドとして彼らの心に残り、またそれに長い時間はかからなかったようです。そしてそこで突然、終わりがやってきました。フィッシュマンズにとって、これ以上の時間が存在する理由はないと考えたのかもしれませんが、今は21世紀。みんなが大人になりました。フィッシュマンズとともに大人になった若者たちにとって、過ぎ去った10年はどんなことがあった時間なのか? 終わりではなかったミッシングリックを探しに、もう一度、記録しに出かけましょう。(ソン・ジョンダル)

あなたが19あるいは23なら、8月の太陽、西の空、棕櫚の木、どきどき、白いスニッカーズ、空っぽの運動場、鳥の羽根、雲、細い雨粒たち、公園のベンチ、4月の月の夜、バスで散歩、安否を尋ねる簡単なメール、小さな微笑、横道と曲がり角、点滅する街頭、毛細血管、サクランボの実の香り、小指、甘い嫉妬たち、滑走路にいっぱいの飛行機、あなたが27あるいは31なら、日曜午後4時、手のひらいっぱいの花粉、力に余る緑色たち、秋の梅雨、古い外套、灰色の屋上、眩暈のする電線、耳の中で折れてしまった綿棒、割れた歩道ブロック、いつも不慣れな証明写真、手相のような昔の友達たち、数多くの角、アラームの音、よく解ける靴紐、酒の席から逃げるように飛び出し乗ることになる深夜タクシー、冷やかすように踊る明かり、知らない名刺たち、二日酔いで眺める天井、しなければよかった話たち、飛行機で使われる金属で作られたというラーメンの鍋、そして結局あなたが37あるいは19なら、まったく、19だなんて……。
あなたが忘れてしまったものが何なのか話しかけてくれるバンド、そして「大丈夫だよ」と話しかけてくれる夢のようなバンド。そうだ。
フィッシュマンズだ。 (漫談家)
2005년에 내가 처음 한국에 왔을 때는, 휘시만즈는 이미 먼저 한국에 있었고, 말이 다른 것 등은 상관 없이, 이곳 사람들 나름의 듣는 방식으로, 이곳 사람들만의 사랑하는 방식이 있었다. 확실히 "Good Music은 시공간을 훌쩍 뛰어넘는다"라는 말을 증명하는 듯한 광경을 눈 앞에서 보고 깜짝 놀랐다. 내가 정말 좋아하는 휘시만즈를 좋아하는 사람이 여기에도 있다는 것이 너무 기뻤다. 한국에서 듣는 휘시만즈 라이브, 일본에서 듣는 것과는 조금 다른 "마법"에 걸리게 되겠지...
2002年2月、笠森霊園。佐藤に会うため会社を転職し、日本へ出張に行った。横浜から道を尋ね尋ね進み、6時間くらいかけて到着した。当時、知っている日本語は「ありがとう」と「こんにちは」ぐらいだった。CDPからは『just thing』が流れていた。「気の合う人に/また会いにゆけば/心も晴れるし/心も閉じる」。吸わないタバコを1本吸い、韓国から持ってきた焼酎で飲福、佐藤の側に置かれているメモリボックスの中の写真やメモを読んでいたら、いつの間にか夜になった。そろそろ帰ろうか。墓地の門も閉まってしまった。バスも終わってしまった。誰もいない。まだ冬で、ちょっとゾクゾクするような気分になった。「どうしよう……」。そのとき車が一台止まった。「終わりました?」。おかしな英語と日本語で「終わったけど門は閉まっていませんよ」と答えた。遅い夜、墓地から歩いてきた日本語を話せない人って、ちょっと怖がっているかもしれない。彼ら(マシモさんとノリコさん)と一緒に再び佐藤に会いに行った。そして彼(彼女)のレンタカーで東京に戻り、彼(彼女)の家でフィッシュマンズを聴きながら、朝まで飲んだ。
次の日は井の頭公園で、1999年3月から東京でフィッシュマンズナイトを開催しているSと出会った。フィッシュマンズ関連のネットサーフィンをしていたところ、彼のホームページを見つけ、勝手にメールを送ってみたのだ。「ビール一杯どうですか?」。吉祥寺の「Kuu Kuu」で、フィッシュマンズを聴きながらたくさん呑んだ。朝目を覚ますと、Sのソファーの上だった。このような小さな偶然と繋がりが重なり、今まで数多くの人や風景に出会ってきた。フーコとスギヤマの「やるしかない」、HONZIとこだまさんと小暮さんと蔡君などの「がんばってね」、スミヨシさん、ミタさん、rock.jpの仲間たちを始めとし、フィッシュマンズを通して出会ったひとりひとりの、あるいは全員の温かい心は、2003年度の秋、「カフェ・空中キャンプ」をつくるのに大きな力になった。そう、そんな時間でした。
黒いビニール袋のような人生と世界において、小さな風穴となったフィッシュマンズは1990年代、音楽シーンの奇跡であっただけでなく、空中キャンプの多くの仲間にとって、「この胸のリズムを信じて」生きていけるようにしてくれる、心の中のエネルギーだった。10年を超える過ぎ去った時間、いつも僕たちのそばで、そういうふうに生きてもいいよと笑いながら、時には悲しそうに話しかけてくれた。笑と涙はいつも、別の笑と涙を誘う。最初はフィッシュマンズをきっかけに、フィッシュマンズを思い出し共有するために集まったのだが、時間が経つに連れて、フィッシュマンズだけでなくフィッシュマンズを好きな友達が好きになり、日常の中で“フィッシュマンズ的”なものを発見できるようになった。
そのようにそれぞれを頼り、抱きしめながら、だんだんそれぞれにとって日常的であり特別な存在となってきた。少しずつお金を貯め、カフェをオープンし、中古アンプと中古スピーカーを準備し、イベント経費を整え、会社でもらった給料で家賃を出した。あえてカフェ空中キャンプの近所に引越ししてきた仲間もいた。財政的に不安定な状況で、オ―ナ―とか代表がいない水平的で円形の共同体を維持するため、空中キャンプのスタッフみんなは悪戦苦闘していることも事実だ(参考までに空中キャンプの時給は130円程度)。少しずつ年をとるにつれ、結婚、会社、健康、個人事情、人間関係などの理由で物理的・心理的に離れてしまった仲間も増えている。空中キャンプがこれからいつまで続けられるのか分からないが、佐藤ちゃんが言った通り、くよくよ言い訳したり適当な妥協をすることなく、自分が信じることをずっと続けるぐらいの覚悟はしている。今までそうしてきたように、エブリデイ・ピクニック、エブリナイ・ドリンキングしながら、愛らしくてつまらない人々と、楽しく悲しく無意味で踏んだり蹴ったりで騒がしい人生を、ずっと生きていくだろう。ひとりでは大変だろうが、横に誰かが一緒なら難しいこともないと考える。
この10年間、空中キャンプ+フィッシュマンズとともに行った、「時には気分、時にはスマイル、 時にはロマンス、時には空、時にはtrip、時にはtravel」などは、今や僕らの人生そのもの(life as such)となった。多くの人がフィッシュマンズを過去完了時制で話すけれど、空中キャンプにとってフィッシュマンズはいつも現在進行形だった。いつも「これから始まる」と考えてきた。これこそが、空中キャンプが今まで「夜のスキマにKiss」を投げることのできた理由となった。お互いを結ぶ「見えない力」と、「そっと運命に出会い、運命に笑う」人々の間のエネルギーの循環は、「小さな祝福の灯がともって小さな時間の輪がまわり」、空中キャンプのネットワーク(星座)を更に拡張してきた。
そのひとつの例として、「すばらしくてNICE CHOICE」(というライブ・イベント)を挙げることができる。2007年3月、フィッシュマンズナイトを記念し初めて開催されたこのイベントを通し、今までハナレグミ、原田郁子、Pすけ、曽我大穂、曽我部恵一、ボノボ、キセル、エマーソン北村、HAKASE-SUN、マリマリ、次松大助、おおはた雄一、OTOUTA、ヒックスヴィル、鹿島達也、オオヤユウスケ、芳垣安洋など日本のアーティストたちや、韓国のインディーズミュージシャン、そして空中キャンプの仲間とイベント参加者たち(空中キャンプでは「観客」という言葉はあまり使わない)が一緒になって、「空中キャンプマジック」もしくは「奇跡の瞬間」を満喫してきた。普段は誰もいない“100kmだけのからっぽ“である空中キャンプも、この時だけは愛と笑いのエネルギーでいっぱいになる。
先週、梅雨の音聞いてる普通のあつい夏の午後、フィッシュマンズ20周年を記念する1冊の本が到着した。空中キャンプの仲間とDVDを一緒に見ながら、「ははは、ハカセ、飲みすぎ!」「オジケン、やっぱりね!オジケンがいたフィッシュマンズが面白かった」「譲さん、会いたい~♡」「欣ちゃん!!! 早く来て!!!」「ZAKさん、言い返すまでもなく最高!!!」とか話した。そうしてお互い笑いながら、知らぬ間に涙を流した。いまだにフィッシュマンズはドキドキする。これからもそうだろう。今年10月には、10度目のSNCが開催される。空中キャンプとしても10度目の秋だ。秋には特に『SEASON』が良い。「うれしいような/さみしいような/風邪薬でやられちまったみたいな/そんなそんな気分で」走ることもできるしね。2002年秋のエネルギーが、2003年度に「カフェ・空中キャンプ」を生み出し、2006年秋の「空中キャンプ組合」のエネルギーが、2007年春SNCを開催させた。2010年秋はどうなるのか……? じゃ、とりあえず、呑みましょうか。そして、そんなそんな気分で走りましょう!もうすぐ秋だしね。乾杯!(go-mama)
2002년 2월, 카사모리 공원묘지(笠森霊園). (휘시만즈) 사토 짱을 만나기 위해 다니던 회사를 옮겨, 일본에 출장을 갔다. 요코하마에서부터 길을 물어가며 6시간 만에 도착했다. 당시에 알던 일본어는 “아리가또”와 “곤니치와” 정도였다. CDP에서는 『just thing』이 흘러 나오고 있었다. “마음 맞는 사람을 다시 만나러 가는 길은 마음도 맑아지고 마음도 닫힌다(気の合う人に/また会いにゆけば/心も晴れるし/心も閉じる)”. 피우지 않던 담배를 한 대 피워 물고, 한국에서 가져온 소주로 음복(飮福)을 하고, 사또 짱 옆에 놓여있는 메모리 박스 안의 사진과 메모를 읽다보니, 어느새 밤이 되었다. 슬슬 돌아갈까. 묘지의 문이 닫혔다. 버스도 끊겼다. 아무도 없다. 아직 겨울이었고, 조금 으스스한 기분이 들었다. “어쩔까...” 그 때 차가 한 대 멈췄다. “끝났어요?” 이상한 영어와 일본어로 “끝났지만 문이 닫힌 건 아니에요”라고 대답했다. 늦은 밤, 묘지에서 걸어 나온, 일본어를 할 줄 모르는 사람이 조금 무서웠을 지도 모르겠다. 그들(마시모 상과 노리코 상)과 함께 다시 사토 짱을 만나러 갔다. 그리고 그(녀)의 렌터카로 도쿄로 돌아와, 그(녀)의 집에서 휘시만즈를 들으며, 아침까지 이야기를 나누었다.
그 다음 날은 이노카시라 공원(井の頭公園)에서, 1999년 3월부터 도쿄에서 휘시만즈 나이트를 개최해오던 슌을 만났다. 휘시만즈 관련 서핑을 하다가 슌의 홈페이지를 보고 무작정 메일을 보냈다. “맥주 한 잔 어때요?” 기치죠지의 「Kuu Kuu」(키치무 이전 가게)에서, 휘시만즈를 들으며, 흠뻑 마셨다. 아침에 눈을 떠보니 슌의 소파였다. 이런 작은 우연과 츠나가리(이어짐)가 계속되어, 지금까지 수많은 사람과 풍경을 만날 수 있었다. 후코 상과 스기야마 상의 “야루시까나이(やるしかない, 할 수밖에 없어)”, 혼지(HONZI)와 코다마(こだま) 상과 코구레(小暮) 상과 사이(蔡) 군 등의 “간밧데네(がんばってね, 힘내세요)”, 스미요시(スミヨシ) 상, 미타(ミタ) 상, rock.jp의 친구들을 비롯해, 휘시만즈를 통해 만났던 한 사람 한 사람, 혹은 모두의 따뜻한 마음이 2003년 가을, 「카페 공중캠프」을 만드는 데에 커다란 힘이 되었다. 그래, 그런 시간이었다.
검은 비닐봉지와 같은 삶과 세계에 작은 숨구멍이었던 휘시만즈는 1990년대 음악 씬의 기적일 뿐 아니라, 공중캠프의 수많은 친구들에게는 「내 마음의 리듬을 믿고(この胸のリズムを信じて)」, 살아갈 수 있도록 해준 마음속의 에너지였다. 지난 10년이 넘는 시간 동안, 항상 우리 곁에서, '그렇게 살아도 괜찮아'라고 웃으며, 가끔은 슬프게, 말해 주었다. 웃음과 눈물은 언제나 다른 웃음과 눈물을 부른다. 처음엔 휘시만즈를 계기로, 휘시만즈를 추억하고 공유하기 위해 모였지만, 시간이 지날수록 휘시만즈뿐 아니라 휘시만즈를 좋아하는 친구들을 좋아하게 되었고, 일상 속에서 휘시만즈'적'인 것들을 발견할 수 있게 되었다.
그렇게 서로 의지하고 보듬어 주면서, 점점 서로에게 일상적이고 특별한 존재가 되어갔다. 조금씩 돈을 모아 카페를 오픈하고, 중고 앰프와 중고 스피커를 장만하고, 이벤트 경비를 마련하고, 회사 월급으로 월세를 냈다. 아예 카페 공중캠프의 근처로 집을 옮긴 친구도 있다. 재정적으로 불안정한 상황에서 오너나 대표가 없는 수평적인 원형의 공동체를 유지하기 위해, 공중캠프 스태프 모두 악전고투하고 있는 것도 사실이다(참고로 공중캠프 시급은 130엔 정도이다). 조금씩 나이가 들어갈수록 결혼, 회사, 건강, 개인사정, 인간관계 등의 이유로 물리적·심리적으로 멀어진 친구들도 늘어가고 있다. 공중캠프가 앞으로 얼마나 더 지속될지는 알 수 없지만, 사토 짱이 말한 대로, “핑계를 대거나 적당히 타협하지 않고, 자기가 옳다고 생각하는 것을 계속해 나갈 수 있을 정도의 각오는 하고 있다(くよくよ言い訳したり適当な妥協をすることなく、自分が信じることをずっと続けるぐらいの覚悟はしている)”. 지금까지 그래왔듯이, 에브리데이 피크닉, 에브리나잇 드링킹하면서, 사랑스럽고 짜증나는 사람들과 즐겁고 슬프고 무의미하고 지지고 볶고 난장판인 삶을 계속 살아갈 것이다. 혼자라면 힘들겠지만, 곁에 누군가가 함께 있다면 어려울 것도 없다고 생각한다.
지난 10년 동안 공중캠프+휘시만즈와 함께 했던 “때로는 기분, 때로는 스마일, 때로는 로맨스, 때로는 하늘, 때로는 trip, 때로는 travel(時には気分、時にはスマイル、 時にはロマンス、時には空、時にはtrip、時にはtravel)” 등은 이제 우리의 '삶 자체(life as such)'가 되었다. 많은 사람들이 휘시만즈를 과거완료 시제로 말하지만, 공중캠프에게 휘시만즈는 항상 현재진행형이었다. 이것이야말로 공중캠프가 지금까지 “밤의 틈에 키스(夜のスキマにKiss)”를 던질 수 있었던 이유였던 것 같다. 서로를 이어주는 “보이지 않는 힘”과, “살며시 운명을 만나 운명에 웃는(そっと運命に出会い、運命に笑う)” 사람들 사이의 ‘에너지의 순환’은 “자그마한 축복의 불을 켜고 작은 시간의 바퀴를 돌리며(小さな祝福の灯がともって小さな時間の輪がまわり)”, 공중캠프 네트워크(星座)를 더욱 확장시켜왔다.
그 한 예로 「스바라시끄떼 나이스 쵸이스(すばらしくてNICE CHOICE, SNC)」를 들 수 있다. 2007년 3월 휘시만즈 나이트를 기념하여 처음 개최되었던 이 이벤트를 통해 지금까지 “하나레구미(ハナレグミ)”, “하라다 이쿠코(原田郁子)”, “피스케(Pすけ)”, “소가 다이호(曽我大穂)”, “소카베 케이이치(曽我部恵一)”, “보노보(ボノボ)”, “키세루(キセル)”, “에머슨 키타무라(エマーソン北村)”, “하카세-썬(HAKASE-SUN)”, “마리마리(マリマリ)”, “츠기마츠 다이스케(次松大助)”, “오하타 유이치(おおはた雄一)”, “오토타(OTOUTA)”, “힉스빌(ヒックスヴィル)”, “카시마 타츠야(鹿島達也)”, “오오야 유우스케(オオヤユウスケ)”, “요시가키 야스히로(芳垣安洋)” 등의 일본 아티스트와 한국의 인디 뮤지션, 그리고 공중캠프 친구들과 이벤트 참여자들(공중캠프에서는 ‘관객’이라는 말을 잘 사용하지 않는다)이 “공중캠프 매직” 혹은 “기적의 순간”을 만끽해 왔다. 평소에는 아무도 없는 “100km정도의 카랏포(カラッポ)”인 공중캠프도 이 날 만큼은 사랑과 웃음의 에너지로 가득차게 된다.
지난 주, 장마 소리를 듣고 있던 후덥지근한 평범한 여름 오후에, 휘시만즈 20주년을 기념하는 책 한 권이 도착했다. 공중캠프 친구들과 함께 DVD를 보면서, “하하하, 하카세, 취했네~”, “오지켄, 역시! 오지켄이 있었던 휘시만즈가 좋았어”라거나 “유주루상, 보고 싶어요~♡”라거나 “킨짱!!! 얼렁 와요!!!”, “ZAK, 두말 필요 없이 최고!!!”라고 말했다. 그렇게 서로 웃으면서 어느새 눈물이 흘러내렸다. 여전히 휘시만즈는 두근두근 거린다. 앞으로도 그럴 것이다. 올해 10월에는 열 번째 SNC가 개최된다. 공중캠프로서도 열 번째의 가을이다. 가을에는 특히 「SEASON」이 좋다. “기쁜 것 같은 외로운 것 같은 / 감기약으로 몽롱해진 듯한 / 그런 그런 기분으로(うれしいような/さみしいような/風邪薬でやられちまったみたいな/そんなそんな気分で)” 달릴 수도 있으니까. ‘2002년 가을’의 에너지가 2003년 가을 <카페 공중캠프>를 만들게 했고, 2006년 가을 ‘공중캠프 조합’의 에너지가 2007년 봄 SNC를 개최하게 했다. 2010년 가을은 어떻게 될까......? 자, 일단, 마셔볼까요. 그리고 “그런 그런 기분으로” 달려봅시다! 이제 곧 가을이기도 하니까. 건배! (go-mama)
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「いちばん最初に好きになったのがフィッシュマンズ。彼女にふられて、死のうか、って思ったときに(笑)。友達に『まだまだ大丈夫だよ』って、そのときに初めて聴いたのが『Walkin'』でした。99年くらい。佐藤伸治が死んだ後に。でも、フィッシュマンズが活動してるときにもう好きだった人もいて、その人と友達らが、フィッシュマンズがなくなって悲しいから、どうしよう、とか思って、フィッシュマンズ好きな人を集めるオンラインコミュニティを作ろう、って」
韓国取材旅行中にたまたま立ち寄ってみたカフェ空中キャンプには5、6人のスタッフがいた。ぼくは、それまでフィッシュマンズも聴いたことなかったし、まったく興味もなかった。なんとなく名前だけ記憶してたその店に、それこそなんとなくヒマ潰しで入ったにすぎなかった。そのなかで明らかにひとり大人、というか、背丈もひとり大きいマッシュルームヘアの男性がいて、その彼がぼくの質問に答えてくれたのだった。カフェ空中キャンプのスタッフには日本語がうまい人が多い。それは、フィッシュマンズの歌詞が知りたくて、そこから憶えたものらしい。00年1月に作られたコミュニティサイト<空中キャンプ>が母体となって、03年11月にオフライン空間で新しい文化創出と共同の幸福増進のためにオープンした、というのがこの店のヒストリーだった。
「最初にフィッシュマンズを聴いたときはmp3でした。音楽は映画よりももっとダメ。だからラジオ放送もできなかった。03か04年に、ラジオで日本の音楽がOKになったけど、TVはダメ。その前もアンダーグラウンドカフェとかではビデオを観ることはできたけど、法律的にはダメだった」
90年代の西東京にありそうな、品揃えの怪しい渋谷系ショップみたいなカフェ空中キャンプの雰囲気に、ぼくはすっかり一息ついていたのだが、ここはやっぱり韓国だった。日本のサブカルチャーやポップカルチャーの意味するものが、ぼくが了解してることとはかなり違い、“日本の音楽を聴く”ということは、なんらかの「態度」であって、それは間違いなく政治に接近していくことでもあった。
彼らは韓国内のインディペンデントな音楽を積極的に聴いてもいる。しかし韓国内のインディペンデントな音楽は、ぼくたちが想像する以上に小さな運動で、昔も今もバンド活動だけでは生活をすることはできないという。カフェ空中キャンプで働くスタッフも当然、別のアルバイトをして稼いでいた。親に嘆かれ、会社を辞めてここにきている人もいる。社会や家族といったサークルを離れて、自分たち主導のコミュニティを作ろうと、ハードな日々を過ごすなかで聴かれ続けるフィッシュマンズというリアリティ。
「ぼくたちが生きている間は、好きなことで食べるのは無理だと思います。新しいというか、明るい未来、幸せな世界は、今も幸せなんですけど、難しいと思いますけど。子供の子供の子供の時代にはできるように頑張ります。お金はないけど、ないままで楽しい方法を。あったらいいけど。あってもいいけど。そういうときに、フィッシュマンズがいちばんいいです」
そんな話を聞いてると、もうとにかくフィッシュマンズが聴いてみたくなって、唯一知ってる『MAGIC LOVE』をリクエストしてみたが、スタッフの人たちは、もっと好きな曲があるような笑顔に見えた。爆音でかかるフィッシュマンズは低音がすごい。「でも、いつまでできるかわからない」とマッシュルームヘアの男性が言う。ぼくはお酒を飲んで、売れ残った彼らのグッズを買った。韓国の空中キャンプというスペースを考える。フィッシュマンズってそういうバンドだったのか。(望月哲)